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飯盛山城

規模 東西400m×南北650 標高316 比高300

飯盛山城全景 高櫓郭 石垣 堀切
飯盛山全景  高櫓郭 石垣 堀切
飯盛山城郭図
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飯盛山は飯盛山は、生駒山地とは滝谷をはさんで切り離されたように独立し、大東市と四條畷市にまたがる山です。戦国時代の山城があった山で知られています。
飯盛山城は河内だけではなく、日本中世史を研究するうえで重要です。河内国と大和国との間は、生駒山地が南北に走り国境となっています。飯盛山は、生駒山地の北西支脈に位置しており、城はこの支脈上に築かれています。飯盛山に飯盛山城を築いたのは、畠山家の家臣木沢長政です。木沢氏は、清滝街道を中心に北河内に勢力をもつ在地土豪と考えられています。

三好長慶は、天文11年(1542)、木沢長政を倒し、ついに永禄3年、芥川山城(23n)を嫡男義興をゆずり、飯盛山城に入城しました。三好長慶は飯盛山・芥川・高屋の三城を中心に治安維持につとめ畿内は落ち着きました。(この頃、五畿内・阿波・淡路など広範囲を支配)

永禄6年(1563)には飯盛山城でキリスト教が布教され飯盛城下はキリスト教が繁栄しました。しかし平和はつかの間でした。同年、芥川山城を居城とした嫡子の義興が22歳で病死。翌年、弟の安宅冬康を飯盛山城で自殺させましたが、それは流言の結果でした。あいつぐ不幸な出来事が原因したのか、ついに長慶自身も同年7月24日、43歳で没しました。 

天正3年(1575)、信長は河内の諸城の破却を命じました。天正3〜4年頃、飯盛山城も落城しました。

天正3年(1575)、信長は河内の諸城の破却を命じました。天正3〜4年頃、飯盛山城も落城しました。
華麗な鎧に身をつつんだ武将が幾度も出陣。戦場になったことも度々。もう一歩で三好長慶が天下人になったかもしれません。

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