千光寺跡 キリシタン墓碑

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田原城主の菩提寺千光寺跡

調査のながれ

キリシタン墓碑出土地
調査地全景

十字架がみえてきた墓碑 墓碑を掘り進める 墓碑そばの土塀の基礎
キリスト教の印がみえました 年号があるかドキドキします 土塀基礎の石列もみえてきました
キリシタン墓碑 穴を掘って埋めていた 墓碑を埋めていた穴
年号も洗礼名も刻まれています 穴を掘って埋めたことがわかりました 墓碑を埋めた穴がはっきりわかります
土塀に葺かれていた瓦  田原城主の礼幡(レイマン)が亡くなった年はキリスト教全盛期の天正9年(1581)です。
 レイマンは洗礼名です。
土塀に葺かれていた瓦

 慶長19年(1614)徳川家康によってキリスト教が厳しく禁止されました。それを犯すと家族や親戚まで罰を与えられました。
 城主のレイマンは千光寺に手厚く葬られていたでしょう。しかし、キリスト教が禁止されると墓碑の十字架が人の目がはばかられ、元の位置から墓碑だけを移動し土塀の内側に隠したのでしょう。
 厳しいキリシタン弾圧にあっても隠れて信仰を続ける人もありました。
 禁止令は明治の初め頃まで続きました。


 キリスト教が伝来したのは、天文(てんぶん)18年(1549)フランシスコ・ザビエルによって布教されたのが始まりです。飯盛城を中心にした地域はいち早くキリスト教が繁栄しました。このことは、イエズス会の宣教師ルイス・フロイス(ポルトガル人)がまとめたフロイス日本史にくわしく書かれています。

永禄6年(1563)は飯盛城主の三好長慶の保護のもとに、その配下だった主だった武士が洗礼を受けキリシタンとなりました。
 田原レイマンが亡くなった頃は四條畷でもっともキリスト教が繁栄していて住民のすべてがキリシタンだったといわれています。

フロイス日本史には砂・岡山のキリシタンのことは詳しく記述していますが、田原キリシタンのことはあまりふれてありません。

四條畷市立図書館で詳しく調べたところ、ついに田原レイマンの名前を発見しました。それには、京都に宿泊する織田信長を田原レイマンら主だった河内キリシタンが挨拶に赴いたと書かれています。
 キリシタン墓碑が発掘調査で発見されるのも稀なことですが、フロイス日本史に記述されている人物と一致するのはとても珍しいことで、キリシタン史に重要な資料を加えることになりました。



 
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